phaさんの近著「持たない幸福論」でも、

なんか適当に「水に漬ける」(※)的な、体力を消耗させてちょっと何かをやったような気にさせてやれば、みんな余計なことをしなくなって、世界はもうちょっと平和になったりするんじゃないだろうか

って言ってた。 ※「水に漬ける」というのは、西原理恵子が小学生の息子をプールとかで泳がせて体力を消耗させ扱いやすくさせてたこと。 http://misapen.tumblr.com/post/121782747872/pha-2

引用の引用ってのも何か変な感じがするが、最近は自分は水に漬かっている感覚がずっと続いている。

ただ無駄な何かをやったような気になる事をついつい付き合ってしまって体力を消耗している。 無駄だと分かっているのだが、やらなければ相手の気が収まらないというのも分かっているのでやってしまう。

日頃からある程度の忙しさをさけるように7割ぐらいの力を出して後々に発生するであろう料理とか洗濯とかやらないと行けないことのために力を温存しているのだが、10割の力を出している人にペースを合わせてしまって無理をしてしまう。

自分は同棲していて、10割の力を出して帰ってきても、作業を分担出来れば問題は無いんだけれど、相手には分担という概念は存在していない様子、というか失敗を恐れて何もしないを選んでる一番やってはいけない事をしているので、俺が倒れたらはいそこまで。何も出来なく飯が食べれないで死にますねって感じなので常に出来る状態にしていなければならない。(徐々になんとかなるようにしていく方向にしてはいるのだが)

水に漬かりたくないときには「漬かりたくない」と言えば良いのだが、というか多めに言ってはいるのだがどうにも無くならない。

人と巻き添えで漬かってないときに自分自身が水に漬かってる時という時間が少ないのか、無意味な満足感が足りてないだけなのか。自分をもっと水に漬ける必要があるのか。人との水に漬かる時間を楽しむ工夫をしていないのか。

うまく人を水に漬けられるようにすれば良い気がしてきた。自分も一緒に漬かるという選択を取り過ぎている気がする。 人はそんなに自分を必要としていない。